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◆1 細長と産着の細長
◇1-1 細長 |
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前身頃に衽(おくみ)をつけずに仕立てる形式の衣で、そのために通常の衣より細長いところからこう呼ばれる。
本来は平安時代に「女の童(めのわらわ)」と呼ばれた少女(またときに上流の若い女性も)が用いた褻(け)(=日常)の装束であったが、表地と裏地との間に中陪(なかべ)を挟んで仕立てたものなどは、晴れの装束としても用いられるようになった。
江戸時代に再興されてからは皇女の「深曽木の儀(ふかそぎのぎ)」などに用いられたため、地質に浮織物や二倍織物のような豪華なものが用いられるようになり、現代でも皇女の「着袴の儀」に用いられている。また晴装束として用いる場合は、内衣である袙(あこめ)を三重の襲(かさね)として、晴れやかさを増すこともある。 |
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| ◇1-2 産着の細長 |
誕生から三〜四歳までの男女児の料となるものである。成年男子の袍を簡略化したともいえるもので、襟は丸首詰め襟の「盤領(あげくび)」で、上前の端と真後ろとに撚った白糸を蜷結(になむすび)にした飾り紐を付ける。
表地は竪緯(たてぬき)とも白糸の固地綾であり、文様には「小葵」や「亀甲」などが用いられる。裏は白平絹である。
またこれに添えられた「単(ひとえ)」は、竪緯(たてぬき)とも白糸で四菱文(よつびしもん)を繁文(しげもん)として織り出した固地綾だが、織る際の裏側を表側として使っている。なお、固地綾の裏側を表として用いるのは、固地綾では裏側のほうが文様がくっきりと表れるためで、束帯の位袍などにも見られる一般的な技法である。
江戸中期以降に将軍家への誕生祝として天皇より贈られるようになって寸法も大きくなり、全体に形式的な物となった。 |
嬰児の参内の折などにも用いられたが、実際には着用されず、通常の産着を着た嬰児の後ろから従者の手で棒持された。
室町初期の『装束寸法深秘抄』 によれば、当時の産着の細長は江戸時代の将軍家に送られたものより複雑な形式である。
袍は表が白小葵文を織りだした固地綾で、両袖と身の三幅とし、衽の裾一尺あまりは縫わず、袖の下と袍の両脇は縫い綴じてある。
襟は盤領(あげくび)で、雄紐・雌紐のトンボがしらに受け緒で首もとを止め、それぞれの所に蜷結びにした白の縒り糸をつけ、さらに色々の糸で鶴や松の飾りを付ける。表の白に対して裏を紫としてあり、この配色を「桜の重ね」と呼ぶので、この細長は「桜の細長」ともいう。組み合わせる単は白四菱文固地綾である。 |
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| ◆2 横目扇 |
| 未成年の男女児の扇。形式は、小振りなことを除けば成人女性の檜扇とほぼ同様であり、板に彩色を施す。また南北朝時代ごろからは美しい色糸で造った餝花(かざはな)と六色蜷結左右縒りの紐の餝糸(かざりいと)を親骨に添えるようになってますます華麗になる。 |
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ただし、成人の扇が男女とも檜の柾目板を用いるのに対して、未成年の扇は杉の横目板を用いることから、「横目扇」の名で呼ばれている。
彩色を施すにあたっては、成人女性の檜扇では板に胡粉で地塗りをするのが普通だが、横目扇では地塗りをしないこともある。
成人用も含め、扇の板の枚数を数えるのには「〜橋(きょう)」ととなえる習わしである。
檜扇や横目扇の橋数はもと八枚を単位とし、横目扇では「三重」の扇で二十四橋となるはずが、「四」を嫌って二十三・二十五という数を使うとされる。
元服して殿上人となるときのものは二十三橋の扇を用いることがあった。 |
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◆3 童直衣と半尻
◇3-1 童直衣 |
元服する以前の男児の着る直衣(のうし)。
成人の直衣は本来は上流の公家男性の日常着として発達したものだが、形式は準正装である衣冠(いかん)装束とほぼ同じであるために、勅許によって参内に着用するなど、場合によっては晴れの場面にも用いられた。
子どもの場合も同様で、現代の七五三にあたる「着袴(ちゃっこ)」などの通過儀礼の際に用いられることが多かった。
冬の袍は袷(あわせ)仕立てで、表地には白、裏地には濃色(こきいろ)を用いる。
濃色とは「濃い紫」または「濃い紅」をいい、古代の紫は現在よりも赤みの強い色だったので、紫も紅も非常に濃く染めると同じような色合いになった。
平安時代の絹地は現在よりも薄手だったので、裏地の色が表地にほんのりと透けて映る。 |
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表を白、裏を赤系統の色とする襲(かさね)では表地にうっすらと赤みがさすので、この直衣を「桜直衣(さくらののうし)」という。
文様は多く小葵文(こあおいもん)を浮織(うきおり)とする(ただし成人男性の直衣では臣下の場合は浮線綾(ふせんりょう)文の固地綾(かたじあや)を用いる)。
若年の文様は小さく繁るが、年齢を増すにつれて文様は次第に大きくした。
夏の直衣の地質・文様には年齢や身分の違いがなく、三重襷(みえだすき)の文様を穀織(こめおり)として二藍に染めたものを単仕立てとした。 |
ただし二藍色については、冬の裏地と同様にはじめ赤みの強い紫から年齢が上がるとともに藍色に近づき、やがて白となるきまりであった。
文様の三重襷も、若いほど細かく年とともに大きくなり、やがて白くなるころにはなくなる。
直衣の装束では、袴に「指貫(さしぬき)」を用いる。指貫とは、裾口に紐などを通して、これで裾口を括りしぼって活動しやすくした袴をいう。童直衣の指貫には浮織や二倍(ふたえ)織物が用いられる。
成人用の指貫との細かな相違点としては、裾口の「おめり」を広く取り、括緒としては白平絹の丸絎(まるぐけ)を指し通して、童の足首の負担を軽減するよう工夫することが多いことがある。
成人の世界で本来は日常着であった「直衣」で参内することが「雑袍昇殿」として聴されるようになり、また「衣冠」が束帯に替わって日常の参朝服となるにおよんで、「指貫」
も位階・官職・年齢・季節・家々の格などによって地質・色・文様などに細かく慣習上の先例を生み複雑化した。 |
童直衣の冬の指貫は、表は紫色亀甲文を浮織の地文とし、さらに白の絵緯(えぬき)の糸で浮線綾(ふせんりょう)の丸を上文とした二倍織物すなわち「亀甲に浮線綾」に代表されるが、成人のものも含めると、指貫の文様としては他にも「鳥襷(とりだすき)」・「果に霰(かにあられ)」・「八ッ藤」・「三重襷」などがあり、これらは「二倍織物」だけでなく「浮織物」・「固地綾」・「固織物」・「穀織」などによって織り出される。
また無文のものとしては「平絹」や「無文の綾」などが用いられた。
色目としては「紫」・「薄色」・「白」などが一般的だが、他にも「青鈍(あおにび)」・「萌木」・「二藍」・「瑠璃色」・「はした色」・「紫苑色」
などの名称が残されている。 |
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| ◇3-2 半尻 |
「半尻(はんじり)」は、1名を「半裾(はんきょ)」ともまた「小狩衣(こかりぎぬ)」ともいい、「狩衣」の系統に属する装束である。
そこでます「狩衣」について概観しておくと、これは元来は鷹などを用いて狩りを行うときに着る衣として生まれたもので、はじめ麻布で仕立てたので「布衣(ほうい)」ともいう。
他の装束に比べて身幅が狭く、袖も後ろ身頃と肩口で繋がっているだけの軽快な服である。
やがてその活動性の高さから絹織物などで仕立てたものも出現し、天皇・東宮の着用こそなかったが、上は上皇から下は雑色(ぞうしき)といった身分の低い人々までも用いられるようになった装束である。
狩衣での参内はありえなかったことから、かえって宮中の服制にとらわれず色目・織り・文様などが自由で、贅を尽くしたものも多かった。
このように形以外にはとくに決まりもないが、袖口にあしらわれる括り紐には年齢によって変化してゆく慣例がある。
なお、本来の麻布製のものを言う場合には同じ「布衣」 と書いても「ほい」と読むのが故実である。
さて「半尻」は狩衣に比べて後の身頃の裾が一尺ばかり短いものを言う。
狩衣と異なる点は主に未成年者の料となることにある。
成年者が着用するとすれば、上皇や摂関家といった最上流の人々が青年期に用いるばかりであり、とくに上皇のお召しになる半尻は「御後短(おんしりみじか)」と呼んだ。
しかし一般的には半尻は童の料として用いられることが多かった。 |
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半尻を用いるには、袴の違いによって二つの装いがあった。
一つは白い大口袴で「前張(さいばり)」と呼ばれるものと(小袖のうえに)半尻だけという組合せで、気楽な姿である。もう一つの組合せの袴は「指貫(さしぬき)」で、このときは「下袴(したばかま)」を着けた上に「大帷(おおかたびら)」・「単(ひとえ)」・「衵(あこめ)」または「衣」などを重ねて「指貫」をはき、「半尻」を着るというものであった。
袖括りには「置括(おきぐくり)」とよばれる飾り緒を付けるが、左右縒とした紅白二本の糸で「毛抜形(けぬきがた)」を表現したものは、十五歳以前の形で、童の料となる。
現代の皇族男児は、民間の七五三にあたる「着袴の儀」にこの装束をお召しになる。 |
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| ◆4 御縫御召 |
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表着として全体に刺繍で文様をつけた小袖を、丸袖・長袖(=振袖)を問わず、「御縫御召(おぬいのおめし)」と呼ぶ。
「小袖」とは元来は庶民の服だったが、平安時代に公家社会にも取り入れられ、袖が小さな筒袖だったためにこの名がある。
鎌倉時代には宮廷装束の構成要素となり、やがて江戸時代には、はじめ幕府の大奥で、やがては京都の宮廷でも、奉仕の際の女性の服となってゆき、さらには子どもの通過儀礼に盛んに用いられるほど重要なものとなった。
一方、中世後期ごろから武家・庶民の世界では小袖が次第に表着としての役割を強め、さまざまな色や文様を用いるようになって、現代の「着物」の原型ともなる。 |
さて、皇帝をはじめ公家の家庭では、元服以前の子供の装束には基本的に男女の別がなかった。
皇族の男女児の料となる御縫御召の刺繍は、皇后御自ら図柄を決められ、宮中お側の女官が繍いを施すことが多いようだが、時によっては皇后御手づからも刺繍をなさったという。 |
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